あたしが欲しかったもの。

相変わらず唐突ですいませんが、ここ最近、思い出したようにお引越し欲が沸いてきて不動産物件を漁りなおしたりしていたりして、あああーなんだかなー状態だったりします。(近況)

何が「なんだかなー」なのかって、もう私の中では自分の思考がどう繋がってるのか判ってしまっているのがトホホな感じなのですが、あれなんだよー、私がやりたいのは『引越し』じゃなくて、それは象徴で、要は『もうなにもいらない』なんだよなー、これ。もういらないからさ、ひとりで篭るのに居心地いい場所を構えて、あとは無理めの家賃払うことだけに心血そそいで生きてけばいーじゃんか、とか。そんな欲求。

そんなこと思いながらも物件見たら見たで、「あーでもやっぱりバストイレは別がいいのー」とか、新たな欲望が生まれたりはするんだけども。いいよなぁ、洗面所スペースのあるおうち〜。ちがうんだ、そーゆー話じゃないんだ。いや、別に、普通に、身の程にあったところに引越しすればいいだけの話なんだけどさ。

『普通に引っ越せばいーじゃん、損するとしても金だけじゃね?』っつーのは私的に実に的を得たアドバイスで、「あれ、それだけ?だったらたいしたことなくね?」とかナットクしかけたんだけど、やっぱ違うんだよー、もう金の問題じゃないんだよ私の中で。たぶんねー、なんか背負いたいんだとおもうんだ、私。退路を断ちたいっつーかさ。いや、たかが引越しの話なんであくまで概念的なモノなんだけども。

ここ1年、そんな感じで、「もういいのーもういいから篭るのー」「やっぱりそれはいやかもー」「でも篭ったら篭ったで楽しそうなのー」とか、回りまわってぐだぐだしているのですが。もういいのーとか言いつつ、『諦念』っつーのもね、案外難しいモノなんだなーとか思ったりもするのですよ。そもそも何を諦めたいんだ私は、みたいな。

なんかさ、おもうんだけどさ、欲求って2パターンあって、簡単にいうと『欲しい』と『いらない』のふたつについての話なんだけども。『欲しい』の欲求が強いひと、あれこれ手にすることができるひとって、『欲しいもの』に付随する『負の要素』に対する耐性が強い人なんだと思うのな。『負の要素』を処理できる能力を持っている人。『負の要素』に対しての『正の要素』のデカさというのもあるんだろうけど、それ以上に、『負の要素』をどう捉えているかというところが大きいのではないか、と。

『負の要素の処理』っつーのは、気分的なことでいえば楽観的であるとか、時にして「鈍感になる」ということだったりするのだろうけれども、やはり、それは一種の強さだと思います。んで、『負の要素』に対して過敏っつーか臆病というか、負荷に弱いタイプのひとは、『いらない』の方に要求の重点が傾くのだとおもう。『傷つくことだけ上手になって』っつーのは、つかこうへい氏のフレーズだっけ。

とかいう日記を書いていたところ、ここまで書いたところでちょっと気になる物件が出てきてしまって今私の中でかなりの盛り上がりを見せています。うっひょーどうしよう、この部屋だったら人生棒に振っても構わない気がするぅー。立地は当初の予定と違うけどアリな気がするしー、値段は微妙だけど全力投球でギリセーフな気がするしー、何より部屋が。住んでるイメージが沸いてしまうぅぅー。「いや、落ち着け、落ち着くんだ」と1日置いてみたんだけども、置いた1日の間に家具の配置とかまでイメージが固まってきてしまっているんだけども、ええと、ええと、あぅああぁーどうしようこれまだ成約されてないのかしらー。

俗物って、シアワセモノってことだよなぁ、と思います。