永遠を願うなら。

今週末は、金曜日はRENさんとお茶、土曜日はFumyさんMiwaちゃんコンビとの恒例お食事会でした。すげー、お友達が多い人みたいー。いや、どちらもサイトを通してのおともだちなので娯楽日記ではなくコチラに書いてみたりしているのですが、会ってるときはもう普通にお友達として楽しんでます私は。結構初対面からそんな感覚ではあるのですけれども。ええと、RENさんは翌日仕事な上に会社戻り、fumyさんは超お客様待遇でのお宅訪問にも関わらず長々居座り体勢ですいません、Miwaちゃんも待たせてる人がいる中帰り道案内までさせて申し訳なかったっす、ありがちょー。えっと、止めないと果てしなくいつまでもいるからこの女。みんな気をつけろ。なんか色々甘やかしてもらっていてウレシイです、えへへ。

そんな際に、それぞれと「サイトを通してのおともだち」ということについて話をしてみたりもしたんだけれども。サイトを通してつっても、どういうタイプのものを公開しているのかというサイトやらブログやらの在り方の違いっつーのもあるとは思うんだけどさ、出来上がる関係にも。どういう形がいいとか悪いとかじゃなくて、それぞれの良さとか性質とかがあると思う。ウチの場合は基本、「ただ勝手に脳内垂れ流しでテキスト書いてる」のを「ただなんとなく覗いている人が居たり居なかったりする」状態で、ちなみに私がよそ様をROMる場合も基本、「ただ一方的に読んで一方的に満足している」のですが。

私がお会いしているのは、そういう関係性からスタートした「サイトを通してのおともだち」なんだけども、なんかね、変な安心感があったりするのよね。リアル友人関係的に言うと『学生時代を一緒に過ごした』レベルの時間共有認識があるのではないかと思われる。いや、私が勝手に持ってて安心してるだけなんだけども。時間共有認識つっても実際は、「3年前からただ読んでます」とか「2年分のログ読破しました」とかいうことだったりするんだけど。でも、そんな一方的なものを「読むという行為で受け入れてくれた相手」なんだなーとかいうとこから来る安心感だったり、また読み手としては「だって私、自分がこのひとのこと好きだってこと知ってるもん」みたいな、そんな自分の気持ちの裏づけになるものが在ることから来る安心感ではないかと思ったりします。や、会ってるときはもうそんなことイチイチどうでもよくてただただ楽しいんですけどね。

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少し話が変わるのですが、最近なんかの雑誌で『親友は必要か』みたいなテーマのアンケート記事を読んだんですが。そこで、親友の定義についてのアンケートなんかがあったんだけど、「何でも話せる」とか「困ったとき助けてくれる」みたいな答えが上位だったのね。なんだけど、私はそのことについてはちょっと懐疑的で。「何でも話せる」っつーのが「信用できる」「素の自分を見せられる」みたいなことだとは思うんだけど、逆にさー、「何でも話さなくても信用してられる」とかいうことも貴重だったりしません?イチイチ報告しなくてもそっとしといてくれる間柄、とかさ。話せるかどうかとはちょっと違うけど、例えば仕事の悩みなんかだったら職場の人間しか判ってもらえないよな話とかも出てくるかもしれないしさー。あと、私は女性としては珍しいタイプですが恋バナとかあんまししない人なので、その部分で「何でも私に話して!」みたいな人だとちょっと物足りない相手かと思います。おんにゃのこは好きだよね恋の悩みとか。私も他人の話聞く分には好きだけども、個人的には『そもそも悩まない』人なので。

うん、恋バナに限らず、『ただ、吐いてみる』みたいなことが全般的に苦手だったりするので、だったらWEBで一方的にもにょもにょしてる方が合ってたりするのかもしれない。相談とかじゃないの話し合いたくもないの、ただ呟かせろー!でもどこかの誰かには知ってて欲しいかもー!みたいな。ワガママだな。そんなワガママを受け入れてくれてる「どこかの誰か」が在ってくれるということは、やはり、ウレシイことだと思います。

話が逸れましたが、「親友の定義」について。の私の解釈としてはですね、『この先もずっと友達でいてくれるという確信を持ってる相手』だなー、と思った。ちょっとやそっとのことでは切れない関係が築かれている人。この先どっちかが死ぬまで友達だなーみたいな、そんな相手。もうね、好きだの性格が合うだの信用に足るだのっていうのは、『親友』じゃなくても得られるものだと思うんですよ。つか、得られなければ『友達』にすらならないじゃないっすか。時と場合によっては、『親友』より気が合ったり助け合ったり、毎日でも会いたいくらいな『友達』が発生することもある。ただ、どんなにダイスキで、分かり合えたとすら思った相手であっても、その関係を続けていくことって、ことのほか難しいものだなと。思うわけですよ。

そんな中で、「ああ、もうコイツは大丈夫、何があっても一生切れないなー」という安心感を持てる相手、それが『親友』なんじゃないかなー、と。そういう、時間軸の問題じゃないのかな、というのが、私の結論。実際に一生一緒にいるかどうかは置いといて、そういう『永遠』を信じられるかどうか、みたいな。うん、私の「友達」やら「親友」やらの定義がある意味すげー厳しいとも思う。

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昔ねー、まだ10代の頃とかなんだけども。友人らと、結婚願望やら子どもについての話なんかをしたことがあったんですよ。女の子としてはありがちな話だけども、何歳頃に結婚したーい、とか、そんな話。んで、私は当時から結婚願望が超低レベルな女だったので、まぁ好きなヒトができれば結婚したいとか子ども欲しいとかいうキモチも出るかもしれんねーみたいな、今と変わらぬ返事をしてたりしたんだけども。その時にね、「子どもが欲しいかどうか」みたいなことで、それも相変わらず「できたらできたで嬉しいんじゃね?」みたいなテンションな私がひとつだけメリットとして挙げたのが、『年取ったときに、生きてる確率の高い「自分の知り合い」が存在すること』だったのね。

いや、もう総ツッコミ受けましたけど、どれだけヒトリモノ目線で喋ってんだと。今にして思うと、そんな回答する10代女子は怖えぇと我ながら思う。思うが、少し自分フォローを入れるなら、10代の方が「基本、ひとりで生きてく」精神が強かったんだよなー。歳とるにしたがって多少丸くなってきた気はしてるんだけど、でも今もその辺は変わらないんだなー、そーいや昔もそんなような話をしてたもんなー、と、そんなエピソードを思い出しました。相手が何してくれるとかじゃなくて、ただ自分が大切だと思える誰かが在ってくれることが在り難いっす、みたいな。

思うに、「結婚」なんかも基本、そういう「約束」だったりするじゃないっすか。一生一緒に居ますよ、みたいな。結婚の場合は精神論だけじゃなくて「具体的な色々」が発生したりもするけどさ、一緒に住むとか。ただ、そういう「一生モノの付き合いを約束しあえる」相手って、だから、そんな多くは持てないものではないのかとも思います。在ると嬉しいけどね、一人いりゃラッキー、みたいなレベルの話ではないかと。『親友』っつーのもそんなものじゃないかなと思うのですよ。

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ここまで書いて思ったけど、あれ?そういう相手を希少で得がたいものだと思ってるってことは、ひょっとして、実は結婚したいのか私?だ、誰と?年末辺りに「デイトしたいー!」とか騒いでた頃は「ひょっとして彼氏とか作りたいのか私?」と、自問っーか、そんな状態の自分にちょっと期待とかしてみたけど、その後おんにゃのことのデイト約束に超浮かれまくってウキウキでそんなことはカケラもどうでもよくなってる状態の自分にちょっと失望したんだけども。なんだよお前、お出かけしたかっただけかよ、ガッカリだよ。まー錯覚でもなんでも、どさくさの勢いで恋人でも結婚相手でも強引に見つけてくりゃいーんでしょうけど。相手超迷惑。むしろそんなココロの隙だらけな時期に、口説いてくる相手のヒトリも発生していない事実を把握した方が。引いてる?みんな、むしろ警戒して引いてる?

改めて自問自答すると、「優しくしたりされたりする相手」っつーのが欲しいなぁ、とか思ったりする今日このごろだったりはします。別にそれが恋人とか結婚相手とかいう関係の相手じゃなくてもいい、と自分が思っているのは判っているんだけどもね。だから彼氏とかできねーんだよ。でも、それが恋人とか結婚相手であってもいいし、そうあるのが「普通」で「自然」なことだとも思います。「おともだち」で充足できることだったりもするんだけどなー。そこで満足しちゃうからダメなんだなー。でも結構満足〜。

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できうることなら、永遠でありますように。それが得がたいものだと知っているからこそ、そう願ってやみません。あ、なんかマジメにキモチを掘れば掘るほど「なんかこのひと怖い」状態になってってる気がしなくもないですが、実際お会いしてる諸氏には「またあそぼーねー」くらいの気分で受け取ってもらえると幸いです。愛してるぜべいべー。